第51回 人を育てる段階

子育てゼミナール

さて、『自我の発達過程』をやってきた。

“自分のことしか理解できていない幼児の段階”から“善悪は他人の顔色から判断する段階”次に“道徳を自分の中に持ち、他人のことが気になり非難したくなる段階”。

今回は、自分の責任で適切に社会に合わせることができ、結果を責任転嫁することなく、怒られなければ何をしても大丈夫ルールの人をまだ未熟なのだと理解できる、『人を育てる段階』の成熟期に入ったようにみえるときについてじゃ。

これまでは『心の成長』を中心として話してきたが、今回は少し違う角度から子供を見てみてもらいたい。

もしも、世の中を悟る年齢でもないのにこの段階にきておる子がおったら、“本当に無理をしていないか”を気にかけてやってほしい。

しっかり甘え、わがままを言い、たっぷりと依存心を満足させてもらい、自分のスキュアベースを確保できているという絶対的安心感が満たされてきておるからこそ、若い年齢にもかかわらず、自我が早々に確立されたというのなら全く問題はない。

何の心配もいらん。

“愛情に満たされて育った”なんてどれほどに養育者冥利に尽き、嬉しいことじゃろう。

じゃが、意図せず、養育者の愛情を一心に引きたいために、または繋ぎ止めたいために人のあり方の理想を実践しておるならば、どんなに可哀想なことじゃろう。

養育者としてこんな悲しいことはない。

なにも子供だからと、わがままを言ったり悪さをする必要はない。

“子供はやんちゃが子供らしい”なんてこそ、思い込みじゃ。

『こうあるべき思想』の大人のエゴじゃよ。

おとなしかろうがやんちゃであろうが構わぬ。

子供のしつけで重要なのは、ここぞというときの『善悪の判断』ができるようにしていくことじゃ。

どういう立ち回りをすれば適切かを教えとるのは未来に子が世の中を上手に渡り、生きやすく生きられるようにとの思い。

決して養育者が楽をするためとか、他人を幸せにするためとか子の他人からの評価をあげてやるためが最優先ではない。

じゃから、お利口を押し付けることで、自分を殺し、薄っぺらい評価を得るだけの虚しさをこどもが感じて毎日を生きておるようではいかんのじゃ。

もしも、お利口すぎる我が子に自然体を感じんのじゃったら、“甘やかし”を実践してやってほしい。

例えば、いつもちゃんとしている子。

あとで片付けようとしているのがわかっていても「あーあー、こんなとこに散らかしてー」と嬉しそうにニコニコしながら片付けてやっておくれ。

きちんきちんとなんでも自分でする子にはあえて、わざと、「のんびりさんやなぁ。いいと思うよ、そのマイペース」と笑い、ちゃかし、楽しげに、“きちんとする前に”先回りして言ってやってほしい。

人に頼らず何でも自分でするしっかり者の子には「(習い事や学校)送ってくわ!」「お母さんしたろしたろ!」と先回りして世話をあえて焼いてやろう。

倹約家でおねだりを決してしてこない子には「買ったろ買ったろ!」とおねだりしてこなくても、特に必要でなく、ぜいたく品であってもちょっと無理してでも財布のひもを緩め、養育者のほうから買い与えてやってほしい。

子育てに必要なのは『先回りのお世話ではなく先回りの褒め言葉』じゃが、こどもが自分に『いい子』を度を越え、課しているようなら、『先回りのお世話と甘える許可』を始動してやっておくれ。

もちろん、さじ加減は大事じゃがな。

そして、困惑しておるようなら、「甘えることも親孝行だよ」と小さな声で優しく微笑んで言ってやってほしいとわしは願うぞ。