第44回  お金や物の与え方

子育てゼミナール

さて、「こうでなければならない子育てはないがこうであってはならない子育てはある」がわしの持論じゃ。

わしには子育ての方針はあるがあくまでそれは目安であり融通が利くもの。

そのときに応じて臨機応変に柔軟に対応し、個々の家庭の文化や方針で子育てしたらええと思う。

じゃが、『これはマズイ』と思う子育てはある。

物やお金に関してじゃと、こどもに言われるがままに際限なく与えるのはマズイ。

我慢をする力も自律心も育たなくなる。

こどもは社会に適応できなくなり、人生が生きづらいものになるのじゃ。

じゃが、なんでもかんでもルールにしたり、厳しくしたりしたらええというもんでもない。

あまりに厳しすぎると甘えの欲求は満たされず、心が餓え、これもまた自律心が育ちにくい。

例えば「プレゼントは誕生日だけ」などと徹底した姿勢でなくとも、サプライズで買ってあげることがあってもよいとわしは思う。

ふいのお小遣いも嬉しいもんじゃて。

もちろん、誕生日じゃクリスマスじゃとイベントは訪れるがお財布事情なども含めてそのときの状況ってものもある。

「今年は買ってあげられないけど我慢してね」「クリスマスとお年玉まとめて」なんてのもありじゃと思う。

これも〝融通〟の勉強のひとつ。

ここで良くないのは、プレゼントの有る無しをすべて条件づけしてしまうこと。

〝ご褒美〟に否定はせんが、ご褒美はたっぷり褒めるだけでええと思うし、〝罰〟もプレゼントを取り上げんでも、きちんと叱るだけでええとわしは思う。

過ぎたるものでなければ甘えも大事。

あくまで事情によるが、お金や物による罰はあんまり賛成はできん。

度が過ぎる与えすぎは人格に偏りをもたらし、人生の剥奪となるが度が過ぎんだら、それは愛情表現の一つじゃ。

お酒を飲みすぎて気が大きくなった父親からたくさんのお菓子を買ってもらったり、「お菓子は二個まで」「200円まで」といつも言う母親が「今日は3個どうぞ」「じゃ、300円まで。」と言うときがあっても良いし、「今日はお金がないから50円までね。」「家にお菓子が余ってるから全部なくなるまでナーシ」というときがあってもよいと思う。

ただし、年中、養育者の顔色次第ではちとまずい。

養育者のご機嫌次第よりも、愛情をベースでお願いしたい。

でないとこどもは他人の顔色をうかがい、媚を売ることばかりを学習してしまう。

処世術も良いがそれに終始してしまうのは寂しい。

祖父母についてはどうじゃ。

祖父母の存在はどうじゃ。

特別なものであって良いとわしは思う。

祖父母が少々甘やかし気味でも大目に見てやってほしいが一緒に暮らしておるとそうも言っておれんこともあるわな。

ならば、度が過ぎてきたらこども自身から丁寧に「気持ちは嬉しいけれどごめんね。ありがとう」と必要な話をさせてみてはいかがか。

これも子にとっては良い勉強。

ではお祭りや旅行ではどうじゃ。

「特別だから無礼講」という家庭もあれば、「〝衛生面が気になる〟〝当たりなんてでない〟〝割高〟だからダメ」という家庭もある。

それこそ、非日常なんじゃからそれぞれの家庭の文化と方針でええ。

要は日常生活の軸が極端すぎると問題となり、こどもの人格形成や自律心に大きなリスクを与えてしまうから、お金や物の与え方には家庭の文化や方針に加えて、さじ加減と融通を大切にしてほしいということなのじゃよ。

ぬほほほほ。